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藤本なほ子

「のこらないもの」

2022年9月17日(土)〜9月30日(金)休催日なし

13:00-19:00(最終日は18:00まで)

HIGURE 17-15 cas
〒116-0013 東京都荒川区西日暮里3-17-15
(JR山手線・京成線「日暮里駅」北口改札西口徒歩6分、JR山手線・東京メトロ千代田線「西日暮里駅」徒歩6分)

テキスト「藤本なほ子の作品についての考察」 鈴木健二
照明中山奈美
協力「小山さんノート」ワークショップ
奥村綱雄
向井三郎

自分の言葉ではなく、他人の言葉を使って作品をつくりたいと考えていたとき、
ふと、友人からのメモの文字をなぞって書き写してみた。
「じゃあね。ばいばい。」という言葉だったと思う。

書き写してできた文字には、今書いたという感触が確かにあって、
でも、私の文字だとは言えない。
かといって彼女の文字だとも言えない。
アンビヴァレントな生々しさが残っている。
その文字を見つめていると
「ここには何か、メディアの大切なものがある」と感じて、
しばらく目を離すことができなかった。

他人の筆跡を書き写し、並べていくことを通して、
起源をもたない遺跡のような光景を思い浮かべている。
そこに見えるものは、ただそこにあるだけで、のこらないのである。

(2011年10月「のこらないもの」展のテキストより)

本展では、次の二つの作品を展示します。

一つは、「のこらないもの」(2011年)全62点のうち、16点。
ある友人が大学生だった頃に、二人の祖母と交わした往復書簡の
三人それぞれの文字をなぞって写した筆跡の作品です。
2011年に表参道画廊(東京)で発表した作品の再展示となります。

もう一つは、「小山さんノート」(2022年)1点。
公園に野宿していた「小山さん」が遺したノートの内容のごく一部を
鏡文字で書き写した作品です。
ノートの判読と記録は、2015年より継続している
「小山さんノート」ワークショップの共同作業によるものです。

「小山さんノート」文字起こしワークショップ
https://noratokyo.exblog.jp/21736442

「のこらないもの」展(2011年、表参道画廊)
https://nafokof.net/works/2011

同展山本貴光氏によるレビュー
https://yakumoizuru.hatenadiary.jp/entry/20111003/p1

「わたしの遺跡を見学する」展(2021年、表参道画廊)水野亮氏によるレビュー
https://note.com/drawinghell/n/nfc1b890f56ab

藤本なほ子

2003年以降、言葉・写真・映像を用いたインスタレーション作品を制作。
近年はおもに「手で文字を書く」ことを通して、人と言葉とのかかわりに内在する距離・ずれをテーマに作品を制作している。

https://nafokof.net

2021「わたしの遺跡を見学する」(東京・表参道画廊)
2018「読まれうるもの」(東京・MUSÉE F)
2015「语言素描 DRAWINGS OF LANGUAGE」(中国 重慶市・Organhaus)
2013「パウルさん Paul-san」(東京・表参道画廊/合同展)
2012「部屋」(東京・表参道画廊)
2011「のこらないもの」(東京・表参道画廊)
2010「現在の遺跡」(東京・MUSÉE F)
2009「遺跡」(東京・MUSÉE F)
2008「handwriting」(東京・西瓜糖)
2006「資料体 corpus」(東京・西瓜糖)
2005「報告」(東京・Oギャラリー TOP’S)
「報告 常滑へ」(愛知・STUDIO 2001)
2004「幾つかの言葉と,不透明な場所。」(東京・switch point)
「弔辞/お別れのことば」(東京・文庫本ギャラリー)
2003「ここではないについて述べる」(東京・Oギャラリー TOP’S)
「ここではないについて述べる2 読まれない。」(東京・switch point)

「藤本なほ子の作品についての考察」

鈴木健二 ( 画家 )

藤本の作品には語りたくなるところがある。なぜだろうか。その作品の多くは、一見したところのイメージを裏切るものである。2008年以降の作品は、見た目には紙に書いた文字の連なりである。手紙やメモのようなものもある。言葉を用いていない作品もある。子供の描いた落書きや、窓からの眺めの映像である。しかしながら、実際にそれらの作品を見ているときに経験している感覚は、普通そうしたものを見るときの感覚とは隔たりがある。作品からは、わずかな違和感や、自分が何を見ているのか分からないような感覚を受ける。そのような感覚には、それ以上の名前がないため、正しく言い表すことができない。そのため、なおさら語ることで、その感覚を確かめたり、誰かに伝えたりしたくなるのだろう。

藤本の2008年以降の作品は、主に他人の筆跡を書き写したものである。それらの作品を見たときに感じたことを説明することは難しい。その理由はおそらく、それらが言葉と自我に関わる作品であるからだろう。言葉と自我は私たちが普段ものごとを考えるときの前提となるものである。藤本はその二つに混乱を生じさせる。作品での言葉の扱いには相反する感覚を与えるものがあり、また作者というものの存在の仕方は、通常の作者と作品の関係とは異なるため、観者は作品に立ち入ると、鏡の迷路に迷い込んでしまったかのように自分の存在している位置を見失ってしまう。

以下ではそうした感覚を生み出す藤本の作品における、読み難くされている文字についてと、作品と自我との関わりについて考えてみたい。

文字を書き写している作品の中でも、2018年以降の作品は、読まれるためにつくられているように見えながら、とても読み難くつくられている。作品内のテキストは、目の前にさらされているのに、深く隠されている。

こうした相反する状態の作品を見たとき、観者はいわく言い難い感覚を覚える。母語で書いてある文字であれば、視界に入っただけでほとんど自動的に読んでしまうような人であっても、藤本の作品では、読むという過程に入ってから、解るという結果に至るまでが非常にゆっくりとしか進まない。文字を見てから判読するまでの時間が引き延ばされたように感じる。このような作品は、通常は展示を観るために展覧会に訪れただけでは、作品の全てを読んで内容を知るという意味において見終えることができない。

私は文字を使ったこうした作品の例を他のアーティストの作品で知らないが、映像作品でなら知っている。作品の名前を確かめられなかったが、フィッシュリ&ヴァイスには、展覧会に訪れて鑑賞する時間では見終わらないような、長い上映時間の作品があったと思う。この作品からは、全体を把握することができないという印象を受ける。それは、現実世界では物事の全てを見ることができないという事実を、作品によっても見せられているようなものである。藤本の作品からも同様に、作品に記述されている内容の全てを知ることはできないという印象を受ける。

作品と自我との関係を考えてみるうえで、藤本の作品に言葉が用いられていることから、視覚芸術ではなく、文章による創作を参考にしてみるとよいだろう。文章によって創作された物語を読むことは、読者が自分ではない他者になる経験でもある。例えば主語が「私」の小説を読むとき、読者はおおむね「私」という乗り物に乗って小説の世界に入ることになる。これは読者が、作中の人物に自身を重ねる行為である。物語の「語り」が、どのように設定されるかによって、読者は演劇の観客のような俯瞰的な視点に立つこともあれば、物語の登場人物と同じ視点に立つこともある。このような観点は、藤本の作品を解読するのに役に立つだろう。

視覚芸術において、つくり手の問題が前景化してくる作例はシェリー・レヴィーンらにもある。作者は誰なのかという問題を引き起こすという点では、他者の手紙や落書きを写し取る藤本も共通するところがある。しかし、藤本の作品の場合は、つくり手と自我の問題、つまり、「つくり手が誰なのか」だけではなく、「つくり手が誰としてつくるのか」が問題となってくる。藤本の作品においては、作品のつくり手というものが、作者という人格とは限らないようである。手紙の書き写しや落書きの模写は、藤本自身の手で書(描)いているにも関わらず、作品の表立ったイメージは、当然ながら手紙の筆者や落書きの作者がつくったものである。藤本はレイアウトやインスタレーションなどにおいて作者として作品に関わるが、作品の中心には藤本ではない他者がつくったイメージがある。2021年の作品では他者のテキストを用いずに同様のことをしている。この作品で書き写しているのは、藤本自身が書いた夢日記である。無意識に見る夢は、作者によるコントロールが利かない、自我の曖昧になる領域だろう。手紙の筆者や落書きの作者と同じ役割を夢の中の「私」が担っている。制作において藤本の自我は、他者や夢の中の「私」などという意識の乗り物に乗って、作品がつくられていくのを見ているに違いない。

作品を観賞するということには、観者が作品を通して、作者の視点でものごとを見るという側面がある。そうであるならば、藤本の作品を観賞する場合、作者を経由した、作者とは別の視点からものごとを見るという、箱の中の箱を見るような入れ子の視点を持つことになる。

言葉と自我は、私たちが普段ものごとを考えるときの前提となるものである。しかしながら、藤本の言葉の扱いは、意味の伝達として機能するものではないし、藤本の作品に現れる自我は、統一された自己意識という統覚として機能するものではない。機能不全の言葉と主格を失った自我によってつくられた作品は、なんだかよく分からない見慣れないものとして姿を現し、私たちに提示されている。

私たちは、ともすればたやすく、ものごとや感情を言葉で単純化したり、人格を類型化して考えたりしてしまうが、よく考えれば、この世界はそうした簡単な分類では収められない不明瞭なものでもあるだろう。

私にはいつも藤本の作品は真理を扱っているように思えるが、その理由はこうした名付け難いものを露わにしているからだろう。

2022.9.4

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