小川 真生樹 尾関 諒 神山 貴彦 中嶋 典宏
「Chapter 2」
2022年11月3日(木)〜11月14日(月)休催日なし
13:00-19:00
HIGURE 17-15 cas
〒116-0013 東京都荒川区西日暮里3-17-15
(JR山手線・京成線「日暮里駅」北口改札西口徒歩6分、JR山手線・東京メトロ千代田線「西日暮里駅」徒歩6分)
この度、HIGURE 17-15 casにて小川真生樹、尾関諒、神山貴彦、中嶋典宏、4名によるグループショウ「Chapter 2」を開催致します。
本展覧会は清澄白河に位置するアーティストランスペースmumeiにて、2019年に同上4名により開催された企画展「KRONO.PLY」からの継続的な企画展となります。「KRONO.PLY」では'集く'という一文を標語に、各々の異なる表現(マテリアルから表現媒体、絵画観、ないしは藝術観念にいたるまで)間の遭遇と衝突、またそこで生まれた空間的な相互作用や、無意識下での概念的な親和性を垣間みる試みとなりました。そして、第二節となる今回の展示では「Chapter 2」と題しまして、前回の展示から約3年の時を経て、それぞれの作品に向く姿勢や、概念的な変化に付随する表現の変容を通して、立ち現れるであろう問題提起を伺える機会がまた新たに生じることでしょう。そして本展覧会では、施し得ぬ不和性こそを鑑賞者の内に抱かせ、その秘匿問答を酒の肴に、無類の談笑を夜通し交わし続けることを望んでいます。是非、ご高覧ください。
皆様
前回話した事を意識してからか、もしくは今から書くことを意識してからか。見ることに対して、ちょうど人が背筋を伸ばすような態度で、その行為に向き合うと自ずと今までとは異なる発見があります。随分前にフロベールの『ボヴァリー夫人』を尾関さんの部屋で見つけました。近頃は蓮實重彦の『ボヴァリー夫人論』を読み進めているのですが、その中で興味深いことが述べられています。そこでは作品中の「つばめ」—ヨンヴィルとルーアンを結ぶ定期便の馬車—の車体構造のちょっとした矛盾点について言及しています。「車体のずっと上の方についた狭い窓」、「乗客は外の景色が見えず」というように記述された「つばめ」から、再び登場する際には「つばめ」の窓越しに流れゆく景色が、エンマ(もしくは話者の)の視覚的または心情的な描写を通して描かれています。つまり狭い窓が景色を眺めるのに十分な大きい窓へと変わっているのです。フロベールの窓の景色を描写する行為、または衝動が狭い窓を外の見える大きな窓に変えてしまったことは、確かに「つばめ」の整合性に矛盾点を生じさせたのかもしれませんが、描写するそれ自体の実感からすれば矛盾のない、彼の中の流れに沿った事の次第だったのではないでしょうか。とは言ったものの、私はこの矛盾点を意識せず、むしろ窓の景色を楽しんだ、読者の一人だったことを正直にお伝えしておきましょう。そしてこれはあくまでも全体の中の一部分でしかないのです。
何かが地続きで起こる時にそれを現実として受け止めること、それを繰り返すことに私たちはそれぞれ程度も内容も異なりますが労しているのではないでしょうか。その過程で話がこじれることもありますが。今一度、全体の話がこじれることを恐れずに、前回話した内容を改めて確認するため、ここに書いてみる次第とします。
神山 貴彦
みんな
この展示のコンセプト文みたいなのを神山が書いてくれて、その文章が手紙のような文体だったから何か返事を書いた方がいいかと思い、今会場でこの文章を書いてる。そう、全体の話がこじれることを恐れずに書いてみようと思う。
会場から人がいなくなって、表の通りが静かになるとビデオ作品の電子音が聞こえてくる。マイキの「Karma」。なんとも食えない作品だと思う。マイキ本人がモチーフなのか、映像では一人の男がタバコを吸ったり、キノコを食べてラリったりしている。バックでは電子音が流れている。ただそれだけ。マイキの作品は「ただそれだけ」が多い。4つの色違いの展示台にトイレットペーパーがおいてあるだけ、スターウォーズのR2-D2の形をした風船が建物の金網で囲われた屋上をただ彷徨っているだけ。~だけ、そんなことは有象無象の表現が散開する昨今、別に珍しくもなんともない。でもマイキの作品に共通して漂うなんかってあるよなって思う。多分、それは孤独みたいなもんなんだと思う。それは生の淵を覗き込むような、そんなような孤独じゃなくって、なんていうかその辺に転がってる石を見てその石の来歴とこれからを想ってなんとなく感じるような孤独なんだと思う。
マイキの作品はそっけなくって、いつも最低限以下の物の手触りを見せられて何か、ゾッとするような、ヒュッと気持ちに隙間風が吹くような。でもそれは悪い気持ちではない。
なんでトイレットペーパーが色違いの展示台に4つ展示されているのか。作品についてマイキに聞くといつもはぐらかしてくる。「そうとも言えます。」とか言ってくる。でも今回頑張って色々聞いてみた。
マイキはものを食べる時にやたらと頬張る癖があるらしく、それをアイディアとして前世が貴族に飼われていたハムスターであった男の物語を書いた。映像の男は現生の男で、怠惰な生活をしていて人生に大した意義を見出していない。映像のバックにはモールス信号に変換された前世がハムスターだった男の物語が流れている。男には聞こえているのか、聞こえていたとしても理解不能の暗号となった自分の前世にまつわる物語がモールス信号音として流れている、そういう構造の作品らしい。マイキにとってのKarma、業にまつわる作品。前世が貴族に飼われていたハムスターの男の業の物語のモールス信号と、その男のアニメーション。なんか面白いと思う。だけど、なんで聞かないとそれを説明しないんだろう。会場にはモールス信号ともわからない音が流れているだけで、特に説明文もない。モールス信号に変換される前の文章もない。例えばタイトルを「前世がハムスターだった男」にするとか、作品素材に「モールス信号に変換された前世がハムスターだった男の物語」とか書けばいいのにって思う。だけどやらない。
多分、マイキは作品が作品になる前のアイディアの状態を見せたいんじゃないかと思う。俺も絵描きだからそんなことを考えることもある。作品になる前の状態、それは色んな可能性が含まれていて完成後よりもある種豊かな状態と言えるのではないか、でも絵でそれをやってしまうとなんとも中途半端なものになってしまう。マイキは立体作品だからできる微妙な手筈を整えて作品をその豊かな状態に近づけてるんじゃないかなと思う。メモやスケッチを見せるようなやり方ではなくって、完成している作品のある重要な情報を秘匿することによって鑑賞者は作品の全体像を把握できない、モザイクをかけられたような状態と対峙することになる。それはマイキが作品を作るきっかけとなったアイディアをぼんやりと眺めている状態と似ていて、さまざまな可能性がチラチラと舞っているような見え。まだより多くの解釈があり得る状態で、もし鑑賞者がその作品の源泉となったアイディアと対峙したらどう考えるか、それをその作品で体験できるようにしているんじゃないか、そんなふうに思った。
だからマイキの作品に漂うある種の孤独っていうのは、作家がアイディアを見出したとき、そのアイディアから作品まで伸びる道に立たされた時の孤独なんじゃないか。
そんなことを考えて、書いていたら19時になる。帰ります。これを読んでマイキがなんて言うかは知らない、多分「そうとも言えます。」って言うんだろ?
尾関 諒
皆様
用意していた文があったのですが、せっかくなので今一度「画を読む」ことを再考して、ここに記そうと思います。
見覚えのない情景を夢に見るとき、わたしたちはその夢の中の情景をどのように思い描いているのでしょうか。そしてその思い描いた情景をどのように見ているのでしょう。自己の内側にある情景を目にするとき、その情景の視覚的な情報をわたしたちは想像し、あらかじめ想像した情景を脳裏に焼き付け見得ているのか、もしくは視覚に依らずに「見る」という行為は想像をすることと同時、もしくは同義に行われているのでしょうか。もし夢や想像する情景を思い描くことと、それを見ることとのレスポンスに“間”が存在しないと仮定するのなら、想像したものを見ることは「見る」ことからはじまっていることになり、記憶や経験の概念があれど、もはやそこに対象は存在しないのではないでしょうか。自己より外の世界においてなにかを見ることには必ず対象が存在しますが、空想や想像することとそれを見ることが同義的に行われているならば、見ることには必ずしも対象は必要ではなく、むしろ想像をするという事象のそれ以前に「見る」という行為が行われているのではないでしょうか。
逆に読むこととはどのようなことなのか。例えば、ひとつのコップを実際に見たとします。コップは単なるコップです。しかし、「単なるコップ」とはいかにして「単なるコップ」なのでしょうか。眼前に置かれたコップを目にしたとき、ただ単一の情報としてのコップとして捉えることは可能なのか。そのコップには当然色や形があり、素材の質や、まだ口をつけていないのならコップの中にはなにかの液体が入っているでしょう。そして、おそらくわれわれはその機能を知り得ています。中の液体がコーヒーならこれはコーヒーカップだと思うか、もしくはコーヒーの入った入れ物だと思うでしょう。またよくよく眺めてみると中々年期の入った味わいのあるビンテージの代物であることに心惹かれ、その来歴に思いを馳せることもあるのではないでしょうか。このように、ただのコップひとつとってもわれわれはそれそのものがそこに存在する所以を意識的、無意識的に関わらず鑑みているように思うのです。そしてその行為自体、つまりわれわれが普段なにげなく「見る」としている行為こそが「読む」ということなのではないでしょうか。そして、物事を視覚的に捉えるというのはまず目で見てそれから読むのではなく、見るという事が読むことに直結し、そして自己の中で読み得た複数の情報を再構築し、遂に見ることができるのではないでしょうか。逆説的に言えば、なにか現実にあるものを純粋にそのものとして捉え「見る」という行為ほど困難なことはないと思うのです。
絵を「見る」のではなく、絵を「読む」。はじめ尾関さんから「絵を読む」という言葉を聞いたとき、それは鑑賞という特別なものの見方なのだと感じました。同時に確かに絵を鑑賞するときに自ずと絵を読んでいるという表現に違和感はなく、むしろ思い当たるところさえありました。そして、再度「画を読む」という事を考えてみると、絵というものを画として置き換えたとしても、「読む」という行為は人がなにかを目の当たりにするときに行うある種の必然的な所作なのではないかという思いに至りました。
作家がモチーフやマテリアル、リサーチなどを通して外的要因、つまり外の世界と繋がりを保つことはままある事ですが、そうしたものを作品として紡ぐ場合、少なからず一度は自己内省的になり、ああでもないこうでもないと押し問答を繰り返すでしょう。暗澹の中に「見た」その情景が作品として表現され、そして作品を鑑賞するという明確に示された、その「読む」行為を通して人は事物を「読む」ということの深みを再認識するのではないでしょうか。
小川 真生樹
くく
珍しく夜に2回目のくくが来た。
向かいの家の上の方からくくが降りてくる。
アトリエの窓から庭を見ると、くくが後ろ向きで寝ている。
コーヒーのお湯が沸くまで、くくをなでる。
くく、少し鳴く。自転車に乗り駐輪場へ。
午前4時半くくに起こされて、ドアを開ける。
庭にも破れたビニールハウスにもくくは居ない。
丸くなっているくくと目が合う。昼の目は細い。
脇の道からくくが出てくる。
くくは水を飲まない。
くくがアトリエを探索している。ほこりをとってあげる。
午後11時に外で鳴き声、くく帰宅。
隣りの内田さん、小松菜を持ってくる。気づいたくくが駐車場から鳴いている。
自転車の後輪で押して出る。くくが目の前で呼んでいる。
くくの動画を見る。耳の影は鋭い。
おやすみくく。
仰向けになりぷしゅーという音。くくは少し周りを警戒している。
くくが水を飲んだ。
朝4時45分くくに起こされる。
くくダイビングごろん。土まみれ。
ドアの前まで出てみるがくくは見当たらない。
歯を磨きながら外へ出る、くくが走ってくる。
中嶋 典宏
小川 真生樹
1987年愛知県生まれ。2014年東京芸術⼤学⼤学院美術研究科絵画専攻修了。
これまでの展示に「IM SAD」(KOMAGOME1-14cas 東京 2022 個展)、「It'll be a frosty Friday」(3階/3F 東京 2021)、「Plan 14」(あをば荘 東京 2018 個展)ほか。
尾関 諒
1986年愛知県生まれ。2011年東京芸術⼤学⼤学院美術研究科絵画専攻修了。
これまでの展示に「袖に月がのぼる」(Sprout Curation 東京 2022 個展)、「VOCA展」(上野の森美術館 東京 2022)、「THE SHARK」(ドイツ文化会館 東京 2021)ほか。
神山 貴彦
1989年福島県生まれ。2014年東京芸術⼤学⼤学院美術研究科絵画専攻修了。
これまでの展示に「神山貴彦」(KOMAGOME1-14cas 東京 2022 個展)、「Ladder boy」(あをば荘 東京 2020 個展)、「EINFACH GERADEAUS」(Im Keller ミュンスター 2018)ほか。
中嶋 典宏
1986年長崎県生まれ。2011年東京芸術⼤学⼤学院美術研究科絵画専攻修了。
これまでの展示に「落蕾」(KOMAGOME1-14cas 東京 2021 個展)、「小雨」(Sprout Curation 東京 2020 個展)、「-9991-」(HIGURE 17-15 cas 東京 2019 個展)ほか。